2012年5月19日土曜日

直感W


<お守りチャーム>(2008年11月10日)

アライカードを一枚引いてその人に必要な石を選んで
チャームを作っています。3000円です。

詳しいことは「オラクル」をご覧ください。



家系に霊の作用があるらしい、Yさんからチャームの依頼がありました。

「日常の異次元」的なことが起こっているらしい・・・
先日は廊下で「影」を見たらしい。
Yさんはgermaniaでチャームを沢山買ってくれていますが
そのチャームが次々に壊れるのです。
修理担当のkarenも驚いています。
「またYさん」と思うそうです。
karenはとても性格が良いので嫌がっているのではありません。
何でこんなにしょっちゅう壊れるのだろう?と、不思議がっているのです。
依頼文を読むとオカルトなことが起こっている様子。
なのでYさんとお嬢さん達に「お守り」(魔除け)チャームを作ろうと思いました。



実は昨夜、次女が寝るねと自分の部屋へと上がろうとしたところ

階段の途中で、持っていた

Guide me God のチャームが壊れて

ばらばらになってしまいました。

 

さすがに次女も、自分のものばかりが立て続けに壊れて

不安になってしまい

私自身昨日のifさんとのメールで家系の浮成仏霊のことを知りましたから

これはどうしたらよいかと眠れませんでした。

 

ifさん

子供たち3人に、それぞれに持たせる

守護するチャームを3っつ作っていただけませんか?

 

 

どうかよろしくお願いいたします。

昨日まで一日三件(というか、三枚以上)の絵を描いてたんですよ。

もう、大変だったんです。

今日は一枚も絵の依頼がなく、こういう日は殆どありません。

(まぁ、無い時が数日続いたりするが)

 

なので、Yさんに関しては

 

 

 

◆家(家系)に悪霊(不成仏霊、気づいて欲しい霊)が居て、妨害している

◆Yさんと娘さん達を守る霊がいて、働いてくれている

 

 

 

としか、言いようがありません。

 

 

誰かの体験談でもありましたね。

 

悪霊と守護霊の闘いですね。

ifさん

 

2012年5月16日水曜日

Kyoto Cafe Style | Cafe Jinta


電機系商社のサラリーマンから
カフェオーナーに。
転機は「うつ病」の発症だった。

田井
今日はよろしくお願いします。
さっそくですが、 小野さんは異業種からカフェのオーナーになられたんですよね。 まずは、 カフェを始められた経緯から教えてください。

小野
はい。 もともとは電機系商社のサラリーマンでした。 独立開業した一番大きな理由というのは、 うつ病になったことです。 病気を患い自宅に引きこもる生活が約2年。 そらから再起するために何をしようかと考え、 突き詰めていったらカフェという業態に巡り会ったんです。

田井
病気のことを少し伺いたいのですが。 うつ病になった原因というのは、 やはりお仕事だったんですか?

小野
それが一番大きな原因だと思います。 iPhoneなどで使われる半導体などを製造するような業界で、 製造装置や工場で使うネットワークの提案をしていました。 例えば半導体チップを動かすだけの機械とか・・・。 超精密な世界で、チップをほんのちょっと動かすだけの機械に大の大人がよってたかって、 ああでもないこうでもないと取り組む姿は、 ある意味滑稽かもしれませんが、 それはそれで誇りをもってやっていたんです。 これがiPhoneなどの形になって、 最終的には巨大ビジネスになっていくわけですし。
それがだんだんと年齢を重ねるごとに、 サラリーマンというのは、 色々なシガラミとか自分では立ち行かない問題が出てきますやん。 それであれこれ悩んでいるうちに、 コンピューターや携帯電話を作る仕事に携わっていたのが、 だんだんそれらに追っかけ回されるような感覚になっていったんです。

田井
それは入社されて何年目くらいですか。 そこそこ勤められてからですか。

小野
それを感じるようになったのは、 7年目くらいからです。 ちょうどその頃に、 自分が攻略したいと思ったターゲットをなんとか攻略できたんですよ。 他社を使っていた企業さんに、 売り込むことができたんです。 それで、 自分が安堵したということもあったんですけど、 そしたら自分がコンピューターや電子機器に追いつめられているような気になってきて…。 『なんかおかしいな』と思うようになり、 気がついたらうつ病になっていたんですよ。

田井
うつ病になって、 会社には行かなくなったんですか。

小野
というか、 ある日突然行けなくなったんです。 それから1年くらいずっと布団の中で過ごしました。 もう、 引きこもり以上ですよ。

田井
へえ~、 1年間もですか。 その時点では、 まだ独身だったんですよね。 ご実家におられたんですか。

小野
はい、 独身でした。 その頃は滋賀県にマンションを購入していて、 一人暮らしをしてたんです。 もうその部屋の中も1日中真っ暗、 自分の人生も将来も真っ暗……そんな中にずっといたんです。

田井
それの状態で1年というのは長いですよね。 一日中寝ているって感じですか

小野
はい、 1年ですね。 毎日寝ているような感じかなあ、 ほんまに布団の中やったんです。 根性なしやったから死ぬ勇気もなかったんで自殺もしなかったんです。でも、 これではアカンなあ、 これは何かにすがらなアカンなあと思い、 『世界三大宗教』という本を買ってきたんです。 それを開きながら『イスラム教か、 キリスト教か、 仏教かどれにしよう??』 って感じやったんです。 ヘンでしょ(苦笑)

田井
いやいや、 どのように克服されていったのかとても興味深いです。

「もっと自然体で行こう!」
そう思えたことでうつ病を克服。
なんか好きなことやろう。
店をしよう。

小野
で、 この宗教の話が展開していくんですけど、 やっぱり「イスラム教」のアラーに向かって祈りを捧げる自分というのもへんやし、 キリスト教も自分にはピンとこない。 やっぱり「仏教」が感覚的に近いんやなって思って、 そんな本を買おうかと思い本屋に行ったんです。 そこで、 本を読むのもしんどいし漫画にしようと思い出会ったのが、 手塚治虫の『ブッダ』やったんです。 それを読んで感動して、 次に『火の鳥』を読んで感動して、 『ブッダ』『火の鳥』『ブッダ』『火の鳥』って感じで何回も何回も繰り返して読んでいたんです。
そんなことをやっているうちに、 そんな「電子デバイスが発展する」ようなことに一生懸命仕事をするん違て、 もっと自然体で行こう! と思うようになって、 自然とうつから抜けれるようになったんですよ。 患った当初は、 同期はどんどん伸びて行くのに自分はずっと止まったまんまやな…みたいな焦りもあったんですけど、 最後はもう好きなことしよう思うようなったんです。
結婚せんでもいいし、 ひとり四畳半で生きていけたらいいかと思うようになって会社も辞めました。 そして、 なんか店をしようと思ったんです。 僕は元々音楽をやっていたので、 音楽と関係性のあるような仕事をしようと思ったのが、 後々のカフェオープンにつながる始めの一歩です。

田井
そう思われたのは何歳ぐらいの時ですか。

小野
34歳の時です。

田井
それでは、 うつ病を克服されてからカフェをオープンするまでのことを教えてください。

小野
最初はね、 カフェなんて思っていなくて、 音楽スタジオをやろうと思っていたんですよ。 やっぱり自分の中でうつが残っているんでしょうね。 明るみにでるのではなく、 インな商売を選んでいるんですよね(苦笑)。

田井
音楽の話がでましたが、 いつぐらいから音楽はされていたんですか。 で、 就職されてサラリーマンになってからも続けておられたんですか。

2012年5月8日火曜日

気分障害とキリスト教: 「明るい気持ち・暗い気持ち」という、病気。


キリスト教関係のお話なので、宗教嫌いな方は読み飛ばして下さい♪

楽天躁鬱は、教会に通うようになって、
躁うつ病が非常に良くなりました。

キリスト教というと難しく聞こえるかもしれないし、
難しくとらえたがるひとも多いですが、
真実は簡単なものです。
たぶん、他の宗教も同じ。

それはなにか、わかりやすく書いてみましょう。
キリスト教の神さまは、財産や、地位名誉をくれるわけではないです。
いわゆる、家内安全、商売繁盛を謳っているわけではないのです。

2012年5月6日日曜日

カウンセリングサービス■心理学講座「エディプスコンプレックス Part2 〜恋愛の根源パターンはご両親との関係でできる?!〜」


◇恋愛にご両親との関係がかかわっている!◇

恋愛問題(結婚、離婚含む)でカウンセリングをしていると、問題の根本
的なものにご両親との関係が隠れていることが多くあります。
恋愛とご両親との関係は、一見全然関係していないように見えたり、
普段意識していないだけに「関係してるんですよ」って言われてもピン
とこないかもしれませんね。

しかし、実際カウンセリングを受けられているクライアントさんはカウン
セリングが進めば進むほどご両親との関係が恋愛問題に関係していること
を実感されているようです。

今回は、そんなご両親との関係の中でも
エディプスコンプレックスと呼ばれるものをご紹介します。

以前に、Lecture.15でご紹介したことがありますので、今回はその第2弾
ですね。
Lecture.15
初恋は不倫!?〜エディプスコンプレックス Part 1〜

また、Lecture.92 でも触れてますんで良かったら見てくださいね。
Lecture.92
お父さんとの関係を見つめてみよう(女性編)

すばる舎出版の『「女子校育ち」のための恋愛講座』でも、
エディプスコンプレックスのことを書かせてもらっています。
こちらもよろしければ見てくださいね。

 

◆初恋は異性の親◆

私たちの初恋の相手というのは異性の親なんですね。
え〜って思われるかもしれませんね。
男の子だったらお母さん。
女の子だったらお父さん、になります。

2012年5月4日金曜日

『In The Name Of The Tiger (2005)』


[DVD][映画] 『In The Name of The Tiger (2005)』

 

 時は遥か昔、山岳一体を収める領主への隷属を拒否している様々な部族がいた。ある日、侵攻してきた領主の軍に対抗すべく神に祈ると祭壇から一人の男が現れた。壁画に描かれていたその男は武術の達人で

「これぞ神の使い! 我ら部族を護りたまえ!」

 っと喜んだもののどうもこの男、神の使いにしては俗な事この上もなく使命感も正義感もやや薄い。とりあえず当面の敵はいないからと気侭に山岳地帯を旅し、小人族に協力してみせたり首長族とのロマンスがあったり領主の軍に捕まって牢屋に入れられ脱走したりしているうちに男の風評が広まり、危惧した領主は悪名高き殺し屋・地獄の双子(Hell Twins)を呼び寄せ、彼らを筆頭に反抗する部族への襲撃を開始する…

 

 っといったお話のこの映画、久々にタイ映画という括りではなく単純に観てで「外した!」っと思った一品。

2012年4月26日木曜日

神経症の治し方



神経症とは何か

「不安や恐怖を、日常生活すら犠牲になるほどの、
 人、モノ、行為への依存行動をくり返すこと。」

これが神経症についての私の定義である。

人生には、次々に、さまざまな不安や恐怖がおそいかかる。

いや、「生きる」ということ、そのものが不安である。

「死」というものへの恐怖もある。

人として生きている以上、不安や恐怖から逃れられることは決してない。

だが、不安や恐怖をそのままにしておくのことは苦痛である。

だから、不安や恐怖から逃れようと、右往左往する。

不安や恐怖から逃れるための行為が、生活に支障を来たすような状態となった場合、
それを「神経症」と呼ぶのだ。

人間は、不安や恐怖が生じるたびに、
そ れを逃れるための行動を起こすものだ。
そして、しばしば、その行動は生活に支障を来たすほどになり、
しかも、習慣化してしまう。

このように考えると、神経症とは、何も特別なものではない。
誰もが、一つや二つ、何らかの神経症を抱えているものだ。

 

神経症という言葉の用いられ方

Web上のフリー百科事典『ウィキペディア』にて、「神経症」を検索してみた。

  神経症(しんけいしょう)とは、精神医学用語で、主に統合失調症や躁う
  つ病などよりも軽症であり、病因が器質的なものによらない精神疾患のこ
  とをさす。軽度のパニック障害や強迫性障害などがこれにあたるであろう。
  これらはかつて、不安神経症、強迫神経症と呼ばれていた。

  歴史� ��にはフロイトが、精神分析を創始するにあたって当初は神経症の患
  者を対象としていたことが有名である。フロイト以降も神経症の精神力動
  的な研究が主流であった。

  しかし最近はDSM-IV-TRやICD10などの記述的な診断基準(病気の原因によ
  ってではなく症状によって診断するもの)が主流となっているため、臨床
  的診断として神経症が使用されることは少なくなったが、神経症の概念自
  体は今でも非常に重要である。

  神経症の病名が使用されることが少なくなった理由として、記述的な診断
  基準の台頭に加えて、精神疾患の生物学的メカニズムが明らかにされたこ
  とや薬物療法の進歩もあげられる。例えば、かつて強迫神経症と言われて
  いたものは超自我や 肛門期固着などで解釈され心理療法が治療の主体であ
  ったが、SSRIなどの薬物が有効であることや脳のセロトニン系の異常が明
  らかになり、強迫性障害と名を変えた。

  なお神経症にあたるドイツ語はNeurose(ノイローゼと読む)であり、日本
  でもノイローゼを神経症の意味で使うこともあるが、一般の人が「ノイロ
  ーゼ」と言う場合はもっと広い意味に使われるので注意が必要である
  (ノイローゼ参照)。

臨床心理士によるサイト『lulu-web』(
神経症について、次のように説明されている。

  どんな人でも、一時的に不安になったり、同じことがどうしても気になっ
  てしまったり、ちょっとしたことが恐くて仕方なくなったりすることがあ
  ると思います。

� �� 神経症というのは、こうした「こころの揺れ」が固定化してしまうことで、
  その  苦痛が続き、日常生活に支障をきたしている状態のことを言います。

  精神病にかかった人は、自分の論理を通すためにある意味で社会的常識を
  捨てます。しかし、神経症にかかった人は、その社会的常識にがんじがら
  めになって、それをしないで済む言い訳を探しているような印象を受けます。

  しかし、時代の流れからか、古典的な神経症症状を示す人は少なくなって
  おり、神経症よりも人格障害と診断されるケースが増えているようです。

  また、現在よく使われている診断基準であるDSM-4でも神経症という
  分類は用いられなくなっています。神経症概念とDSM-4の分類� ��対応
  については[神経症とDSM]の項にまとめました。

同サイトによる、神経症とDSM-4の対応表によると、

  神経症      DSM-4

  不安神経症    全般性不安障害、パニック障害

  恐怖症      広場恐怖、社会恐怖、特定の恐怖症

  強迫神経症    強迫性障害

  心気症      心気症

  ヒステリー    転換性障害、解離性健忘、解離性遁走

  離人神経症    離人性障害、解離性同一性障害

  抑うつ神経症   大うつ病性障害、気分変調性障害

以上の、ウィキペディアとlulu-webによる説明をまとめてみる。

1.神経症とは、統合失調症や躁うつ病などよりも軽症であり、
  病因が器質的なものによらない� ��神疾患。

2.神経症とは、不安や恐怖などの「こころの揺れ」が固定化してしまうこと。

3.日本で用いられている「ノイローゼ」という言葉よりは、狭い概念である。

4.現在では、神経症の病名が使用されることが少なくなった。

 

神経症とは依存による回避行動である

人は、恐怖や不安に直面した場合、回避行動をとろうとする。
これは、ごくごく、普通のことである。

だが、その恐怖や不安があまりにも大きな場合、
回避行動もまた、極端なものになって行く。

そして、一度経験した、恐怖や不安に関連することがらを見聞するだけで、
回避行動をとるようになる。

いわゆる、これが神経症であると考えて良い。

例えば、子供の頃、道で転んで、
その時、偶� �、犬のフンの上に手をついてしまった。

それ以来、手の汚れに対する不安感が増し、
何度もしつように手を洗うようになった。

手の汚れに対する不安を解消しようとする行為が、しつような洗浄である。

これが、強迫神経症(DSM-4分類では「強迫性障害」)と言われるものだ。

また、子供の頃、いじめられたことが原因で、人間が恐ろしくなり、
学校を卒業しても、家にひきこもりになる者もいる。

これは、人間へ恐怖に対して、「ひきこもり」という回避行動をとっている。

こても神経症の一種であり、「対人恐怖症」などと言われるものである。

「回避行動」とは、必ず何かに「依存」して行われる。

手の汚れへの不安は、「洗浄」という行為に依存することで回避する。

� �間への恐怖は、「ひきこもり」という行為に依存することで回避する。

つまり、神経症は、必ず何らか依存対象を必要としている。
それは、「行為」の場合もあれば、人や物などの場合もある。

子供の頃から地味だと言われ続けた女性が、
成人して、ブランドで身を固めるようになることがある。

これは、他人によって見下されることに対する恐怖を、
「ブランド」という物に依存することで、回避しようとする。

一般的に「依存症」と言われる症状であるが、
神経症とは、必ず何らかの依存症を伴っている。

では、顔面赤面症や、吃音など、受動的症状の表れる神経症の場合はどうか?

受動的症状は、自然に現れるものであり、
「依存」という言葉は当たらないように思える。

だが� ��「依存」とは、意識的に依存するということではない。
潜在意識が症状に「依存」することである。
依存しているという自覚があるか否かは関係ない。

顔面赤面症や、吃音とは、「この緊張に耐えられない」というサインである。
恐怖や不安から回避するために、顔面赤面症や、吃音というサインが出る。
顔面赤面症とはまさに、顔に表れた赤信号だ。

潜在意識が、このサインに依存することで、
不安や恐怖から回避させようとしているわけである。

 

ノイローゼという言葉について

「ノイローゼ」(Neurose)は、ドイツ語で「神経症」を表す。

だが、日本では単に「悩み」という意味を持つようになった。

神経症は単なる悩みとは異なり、依存行動を伴う。

すなわち、「ノ� ��ローゼ」という外来語は非常に問題がある言葉である。

日本では、「ノイローゼ」という言葉は用いず、「悩み」と言ったほうが良い。

 

うつ病は神経症の一種

神経症とうつ病を、別個の存在であると理解している人が多いだろう。
だが、私はうつ病は神経症の一種であると捉えている。

私自身の体験でお話した、退却神経症であるが、
これは、学校や会社などのストレス源から、直接的な逃亡を図る症状である。

通勤時、会社とは逆方面の電車に乗って、海に行ってしまった、
などというのは、ありゆれた退却神経症の出かただが、
小学生の子供が「学校に行きたくない」と、
布団にもぐったまま、出て来なくなるのも、退却神経症である。

「おなかが痛い」と言って、学校を 休んだ子供が、
昼頃になると、ケロッとしてテレビを観ている。

ストレスに弱く、ストレスからの逃亡をはかるのが退却神経症だ。

退却神経症の場合はまだ、ストレス源から逃亡しさえすれば、元気が出る。

しかし、症状が深刻化すると、ストレス源から逃亡しても、
不安から逃れることができなくなる。

会社や学校を休んでも、常に情緒的な不安が起こっている。

これが「うつ病」というものだ。

うつ病は、退却神経症の延長線上にあるものだ。

神経症が進行して、うつ病となるのである。

尚、DSM-4の括りでは、うつ病は「大うつ病性障害」とされている。

 

うつ病とセロトニン不足

一般に、うつ病は、
神経伝達物質であるセロトニンが不足することによ って生じると理解されているが、
そもそも、悩むことによって、セロトニンが減るのである。

日々の会社勤務における悩みにより、
ある日、会社に行くのが嫌になって、家で寝込んでしまう。

それ以降、無断欠勤を繰り返し、会社や家族に言われて病院に行き、
「うつ病」と診断される。

そこで、長期に渡り、会社を休職することになるが、

「会社で噂になっているのではないか?」

「このまま休み続けるとクビになるのではないか?」

「復職したとしても、まともな扱いを受けられないのではないか?」

など、さまざまな不安が頭をよぎり、セロトニンが不足し続ける。

セロトニンが不足すると、感情が抑制できなくなるが、それだけではない。
セロトニンは、食欲、睡眠・覚醒リ ズム、生殖、運動、体温、呼吸、消化、
心臓などにも影響し、通常の日常生活すら、営めなくなる。

これが「うつ病」だ。

尚、セロトニン不足は、すべての神経症者における、共通の特徴であるが、
特に、うつ病の場合は、深刻なセロトニン不足なのだ。

 

神経症の定義

研究者により、さまざまな反論はあるだろうが、
私は神経症について、

「不安や恐怖を、日常生活すら犠牲になるほどの、
 人、モノ、行為への依存行動をくり返すこと。」

と定義したい。

たとえば、さまざまな感染症が蔓延している。

感染を防ぐためには、うがい、手洗いを徹底するしかない。

ゆえに、職場にいる場合、一日、何度も、うがい、手洗いをくり返すことは、
感染予防上、むしろ� �好ましいことである。

たとえば、一時間に一度、うがい、手洗いに行くとしよう。

通常のオフォスのような場所であるならば、
一時間に一度、数分、うがい、手洗いに行くことくらい、問題はないだろう。

ところが、20分、30分に一度となると、支障が出てくる可能性がある。

また、一度のうがい、手洗いに費やす時間も、
2~3分ならば問題無いだろうが、10分とか、20分とか、
場合によっては1時間もそれをやっていれば、明らかに生活に影響が出てくる。

さらには、手を洗い過ぎて、荒れてしまうなど、健康上にも被害が及ぶ

不安や恐怖を、人、モノ、行為に依存することによって、
回避しようとすることは、ごく当たり前のことである。

それ自体は「神経症」とは言えな い。

ところが、通常の日常生活が困難になるほど、
その依存行動が過剰になることが、「神経症」なのである。

神経症とは、決して、降って湧いたような、根拠のない症状ではない。

不安や恐怖という、必ず、何らかの原因がある。

ところが、その不安や恐怖から逃れるために、
日常生活すら犠牲になるような、過剰な回避行動をとることが神経症である。

過食症というものがある。
ストレスから回避するために、しつようにモノを食うわけだ。
これにより、肥満になれば、健康がおびやかされ、日常生活に支障が生じる。
ゆえに、過食症もまた、神経症の一種である。

このように、神経症というのは、現れて来る症状がさまざまである。
その症状については、DSM-4分類であげら� ��ている名称で呼ぶのが、
現在は一般的なのだろう。

だが、DSM-4分類であげられている、さまざま症状を総合的に言うならば、
やはり、「神経症」という言葉が的確であろう。

私は、

2012年4月24日火曜日

護教の盾 キリスト教瞑想:カトリックの念祷のためのビギナーズ・ガイド


キリスト教瞑想は祈りの中で「思考、想像、感情、望みなどに焦点を当てます」(カトリック教会のカテキズム 2708)。

それは「念祷(mental prayer)」としても知られています。

当記事は、人を「いかに」キリスト教瞑想に導くかに関する詳述です。あなたはこれによって祈りの生活を力強いものに発展させることができます!

キリスト教瞑想は不可欠のものです

どんなキリスト教徒も念祷を実践する必要があります。毎日。

あなたの信仰は、祈り-----「生きておられる真の神とのいのちに満ちた人格的な交わり(personal relationship, 個人的な関係)」(カテキズム 2744 & 2558)------無しには生き続けることができません。

当サイトの記事「いかに祈るか」にあった祈りに関する基本的真実を思い出して下さい。

  • 祈りはクリスチャンの生活にとって不可欠のものである。
  • それは日常生活の中でできるものである。
  • 祈りは最も小さな信仰からさえ成長することができる。
  • 祈りの基本は習得するのが易しいものである。

「毎日のカトリックの祈り」や「神の現存」などに示されている良い習慣が、あなたがキリスト教瞑想に力強く進むための助けとなるでしょう。

それらの習慣が、あなたが念祷に進むことを容易にします。実際、それらの習慣が、それを全くの喜びに変えるでしょう!

日々のカトリックの祈りを習慣とすることによって、あなたは既に念祷(神と対話すること)の最も基礎的な部分を実行しています。

そして今、あなたは「彼に耳傾ける」ことをも学ばなければなりません。その方法がキリスト教瞑想です。

普通に言う「瞑想」ではありません

「瞑想」という言葉によって誤解しないで下さい。念祷は東洋の瞑想とは非常に違っています。

  • ノンクリスチャンの瞑想は心を空っぽにすることをその目標とする。
  • クリスチャンの瞑想は祈りの中でマインド(精神, 思考)に焦点を当てる。

カトリックの瞑想は、天主を知るため、彼の私達に対する愛を理解するため、また彼との深い結ばれに入って行くために、マインドの能力を使おうとします。マインドの使用は、「信仰の確信を深め、回心を促し、キリストに従う意志を強めるために必要です」(カテキズム 2708)。

簡単に言えば、私達のゴールは、人間の基本的な問い------「主よ、私に何をお望みですか?」(カテキズム 2706)------への解答を得ることです。

キリスト教瞑想は私達を聖三位の中に浸さなければなりません。すなわち私達は自分を聖霊(祈りの管理者)に明け渡し、それによって聖霊は私達をキリストと結びつけ、御父に向けられた私達の祈りを完成することができるのです。

あなた方が神の子であるが故に、神は、私達の心に、「アバ! 父よ!」と叫ぶ御子の霊を送って下さったのです。

(ガラテヤ 4:6)

(もしあなたがノンクリスチャンの瞑想とクリスチャンの瞑想の違いについてもっと知りたければ、バチカンの教理省がこの主題について書いたものがあります。かなり内容の濃いものですが! しかし、あなたがこの主題に関心があるなら一読に値します。教理省の Some Aspects of Christian Meditation です。)

あなたに必要なもの

豊かなキリスト教瞑想の日々を始めるために、あなたにはただ二、三のシンプルなものが必要なだけです。

  • 少しの時間
  • 静かな場所
  • 聖書

一人で、静かな場所で、ただ5分か10分の時間をかけることから始めて下さい。一日のうちの早い時間帯を使うことができれば最良ですが、それができなければ他の時間帯を見つけて下さい。

それにかける時間を決め、固く守って下さい。一貫性はとても大事です。ある日「倦怠」を感じても、短縮しないで下さい。同様に、素晴らしいと感じた時も、延ばさないで下さい。

あなたはまた、キリスト教瞑想の基礎として使う幾つかの読み物や視覚資料を用意しなければなりません。福音書が最良の選択です。一つを選び、毎日その一部分を読んで下さい。あるいは毎日のミサの冊子を使ってみて下さい。あなたの聖書を使って毎日一定の章節を読んでいくことができますし、Magnificat のような月刊小冊子を購読することができますし、またオンラインでその種のものを読むこともできます。

  • 毎日の読書は短いが故に良い。それによってあなたは深く読むことができる。長くではなく。

あなたはキリスト教瞑想のための基礎資料として多くのものを使うことができます。聖書、特に福音書、霊的な著作、典礼のテキスト、そして自然界それ自体の中に見える「神の指紋」さえ。

読む箇所をあらかじめ決めておいて下さい。そうすれば、聖書の適当な章節を選ぶために祈りの時間を無駄にすることがありません。