電機系商社のサラリーマンから
カフェオーナーに。
転機は「うつ病」の発症だった。
田井
今日はよろしくお願いします。
さっそくですが、 小野さんは異業種からカフェのオーナーになられたんですよね。 まずは、 カフェを始められた経緯から教えてください。
小野
はい。 もともとは電機系商社のサラリーマンでした。 独立開業した一番大きな理由というのは、 うつ病になったことです。 病気を患い自宅に引きこもる生活が約2年。 そらから再起するために何をしようかと考え、 突き詰めていったらカフェという業態に巡り会ったんです。
田井
病気のことを少し伺いたいのですが。 うつ病になった原因というのは、 やはりお仕事だったんですか?
小野
それが一番大きな原因だと思います。 iPhoneなどで使われる半導体などを製造するような業界で、 製造装置や工場で使うネットワークの提案をしていました。 例えば半導体チップを動かすだけの機械とか・・・。 超精密な世界で、チップをほんのちょっと動かすだけの機械に大の大人がよってたかって、 ああでもないこうでもないと取り組む姿は、 ある意味滑稽かもしれませんが、 それはそれで誇りをもってやっていたんです。 これがiPhoneなどの形になって、 最終的には巨大ビジネスになっていくわけですし。
それがだんだんと年齢を重ねるごとに、 サラリーマンというのは、 色々なシガラミとか自分では立ち行かない問題が出てきますやん。 それであれこれ悩んでいるうちに、 コンピューターや携帯電話を作る仕事に携わっていたのが、 だんだんそれらに追っかけ回されるような感覚になっていったんです。
田井
それは入社されて何年目くらいですか。 そこそこ勤められてからですか。
小野
それを感じるようになったのは、 7年目くらいからです。 ちょうどその頃に、 自分が攻略したいと思ったターゲットをなんとか攻略できたんですよ。 他社を使っていた企業さんに、 売り込むことができたんです。 それで、 自分が安堵したということもあったんですけど、 そしたら自分がコンピューターや電子機器に追いつめられているような気になってきて…。 『なんかおかしいな』と思うようになり、 気がついたらうつ病になっていたんですよ。
田井
うつ病になって、 会社には行かなくなったんですか。
小野
というか、 ある日突然行けなくなったんです。 それから1年くらいずっと布団の中で過ごしました。 もう、 引きこもり以上ですよ。
田井
へえ~、 1年間もですか。 その時点では、 まだ独身だったんですよね。 ご実家におられたんですか。
小野
はい、 独身でした。 その頃は滋賀県にマンションを購入していて、 一人暮らしをしてたんです。 もうその部屋の中も1日中真っ暗、 自分の人生も将来も真っ暗……そんな中にずっといたんです。
田井
それの状態で1年というのは長いですよね。 一日中寝ているって感じですか
小野
はい、 1年ですね。 毎日寝ているような感じかなあ、 ほんまに布団の中やったんです。 根性なしやったから死ぬ勇気もなかったんで自殺もしなかったんです。でも、 これではアカンなあ、 これは何かにすがらなアカンなあと思い、 『世界三大宗教』という本を買ってきたんです。 それを開きながら『イスラム教か、 キリスト教か、 仏教かどれにしよう??』 って感じやったんです。 ヘンでしょ(苦笑)
田井
いやいや、 どのように克服されていったのかとても興味深いです。
「もっと自然体で行こう!」
そう思えたことでうつ病を克服。
なんか好きなことやろう。
店をしよう。
小野
で、 この宗教の話が展開していくんですけど、 やっぱり「イスラム教」のアラーに向かって祈りを捧げる自分というのもへんやし、 キリスト教も自分にはピンとこない。 やっぱり「仏教」が感覚的に近いんやなって思って、 そんな本を買おうかと思い本屋に行ったんです。 そこで、 本を読むのもしんどいし漫画にしようと思い出会ったのが、 手塚治虫の『ブッダ』やったんです。 それを読んで感動して、 次に『火の鳥』を読んで感動して、 『ブッダ』『火の鳥』『ブッダ』『火の鳥』って感じで何回も何回も繰り返して読んでいたんです。
そんなことをやっているうちに、 そんな「電子デバイスが発展する」ようなことに一生懸命仕事をするん違て、 もっと自然体で行こう! と思うようになって、 自然とうつから抜けれるようになったんですよ。 患った当初は、 同期はどんどん伸びて行くのに自分はずっと止まったまんまやな…みたいな焦りもあったんですけど、 最後はもう好きなことしよう思うようなったんです。
結婚せんでもいいし、 ひとり四畳半で生きていけたらいいかと思うようになって会社も辞めました。 そして、 なんか店をしようと思ったんです。 僕は元々音楽をやっていたので、 音楽と関係性のあるような仕事をしようと思ったのが、 後々のカフェオープンにつながる始めの一歩です。
田井
そう思われたのは何歳ぐらいの時ですか。
小野
34歳の時です。
田井
それでは、 うつ病を克服されてからカフェをオープンするまでのことを教えてください。
小野
最初はね、 カフェなんて思っていなくて、 音楽スタジオをやろうと思っていたんですよ。 やっぱり自分の中でうつが残っているんでしょうね。 明るみにでるのではなく、 インな商売を選んでいるんですよね(苦笑)。
田井
音楽の話がでましたが、 いつぐらいから音楽はされていたんですか。 で、 就職されてサラリーマンになってからも続けておられたんですか。
budhismうつ病
小野
僕は14歳の時からずっとギターを弾いていたんです。 大学時代は結構ライブにも出てました。 ジャンルはブルースです。 サラリーマンになってからの方が、 より積極的に活動していましたね。 実は、 そのせめぎ合いもあったんですよ。 音楽で食っていくと決めて行動できるほど自分に自信もないし、 行動力もない。 だから、サラリーマンをしながら音楽をやっていこうと決めたんです。 それに、自分が好きな音楽ばかりやって食っていくのってどう考えても難しそうじゃないですか。 僕が好きな音楽をしている人たちの中にも、 仕事をしながら自分が納得いく音楽をしている人がたくさんいて、 自分もそういうスタイルがいいなって思ってたんです。
でも、 音楽も大好きで一生懸命やっていきたくて、 だけど仕事もせなあかんし、 やりがいのある仕事もさせてもらえるようになって……。 限られた自分のなかで、 たとえば100という自分のキャパシティーの中でどう折り合いをつけるかということをやってきたのですが、 それがだんだんと難しくなってきたんですよね。 100が120、 150、 200になっていき、 どんどん溢れ出してきたんですよね。 最初は音楽メインやったのが、 仕事の比率がだんだんと大きくなってきてしまって。 やりたいことを見失ってしまったんですね。
田井
うつになる前も音楽はやっていたんですか。
小野
やってました。 うつの最中もやってましたよ(笑)。 あるライブハウスでは、 月1でブルースのセッションライブというものをやってたんですが、 それはうつの間もずっと休まず行ってました。 多分、 それがその時の自分の人生やったんでしょうね。
月に1回ライブをバーンってやって、 テンションガーンって上がって、 その翌日にテンションがドーンて落ちるんです。 そしてずっと落ち続けて、 また翌月ライブバーンってやって上がって、 翌日からドーンて落ちて・・・それを1年間繰り返していたんです(苦笑)
田井
そういうバッググラウンドがあったら、 音楽スタジオをやろうと考えられたんですね。
小野
はい、 そうです。 でも、 スタジオって設備が必要な商売なんですが、 そこまで資金がなかったんですよね。 限られた貯金しかなかったし、 退職金もほとんどなかったし、 これは無理やなあって思いスタジオは断念しました。 次に、 なんかライブハウスみたいなんをしようかなと思ったけども、 もう一つお金がかかる。 それと、 新しいライブハウスは特に集客という高い壁が待っていて、 ミュージシャンにチケットノルマや出演料を課さないと経営が難しいという現状がある。
そこで思ったんです。 僕がやるとしたら、 ミュージシャンと一緒にお客さんに満足してもらって、 その満足したお客さんがお金を払ってくれるような、 そういう商売のあり方でないとアカンなって。 そうでなければ、 自分が音楽を本当に楽しんでいる、 表現している、 音楽をやっている、 ということにならないじゃないかと思って。 そこで最終的に選んだ業態が、 カフェやったんです。
音楽をベースにしたカフェを、
岩倉で開業。
田井
オープンされたのは岩倉でしたよね。 岩倉を選んだ理由は何かあるんですか。
小野
家賃が安かったから(笑)ちょうど適当なお店があったんですよ。 喫茶店の居抜きで、 生演奏することも大丈夫そうな環境の貸店舗が。 もう居抜きのまんまで始められそうだったので、 初期投資もすっごく安く済みました。
田井
では、 場所は特に岩倉でなくてもよかったんですね。
小野
自分の予算で始められるとこなら、 もうどこでも良かったです。 まあ、 当時は滋賀県に住んでたんで、 滋賀県のほうがよかったのかもしれませんが。 でも、 まあ導かれたんかもしれませんね。
田井
いよいよカフェを始められる訳ですが、 その前に『Cafe Jinta』さんという店名の由来を教えてください。
小野
明治の中期あたりに西洋の楽器が日本に入って来るのですが、 それを手にした日本人たちが組んだ楽団を『ジンタ』というんです。 まあ、 チンドン屋の原型みたいなもんなんです。 その人たちが、 サーカスとか興行の宣伝の為に街を練り歩いたんです。 僕は、 それが日本の大衆音楽としての原点だと無理矢理思っていまして。
先ほど申し上げたように、 僕はブルースが好きなんです。 ブルースはまあ言うたら、 軽音楽のルーツやと思ってるんですね。 そういうルーツミュージックというのがすごく好きなので、 そこをリスペクしてということもあって店名にしました。 また、 『ジンタ』という言葉が日本人として、 愛国心じゃないですけどアイデンティティというか、 そういうのを表現したかったんです。
田井
僕は小野さんと付き合いは長いですが、 はじめて知りましたね(笑)。 僕はあだ名かなんかだと思ってました、 なんとなく思い込みで。 では、 いよいよカフェの場所も店も決まりオープンされるわけですが、 飲食の経験はあったんですか?
小野
大学生の4年間、 アルバイトで喫茶店で働いていました。 小さいお店からもの凄く忙しい店まで、 何店舗かで働いた経験はありました。 四条烏丸の『大丸』の真ん前にね、 「ブリッジ」って喫茶店があったんですが、 そこで長くやってたんです。 それこそホールも厨房も、 材料の発注、 後輩アルバイトの指導まで、 結構何でもやってましたね。 まあ、 そういう経験もあったので、 できるだろうとふんでたいたんですが・・・ところがどっこいのすっとこどっこいですよ(苦笑)、 時代が違うんですよね。 僕らが大学生の時はバブル絶頂の時で、 言ってしまえば、 ええかげんな仕事をしててもどんどんお客さん入って来られたんです。 今では考えられないですけどね。
だから、 その当時はものすごく忙しかったんです。 コンロもシンクも2つだけで、 あとオーブンがあるだけの小さな厨房で、 パスタとピザとパフェ、 サンドヴィッチのメニューを作ってました。 客席は100近くあったと思うんですが、 それを厨房は2人でまわしていたんです。 効率的にたくさんの食事を作るというやり方は、 そこで身につけていたんでしょうね。 その経験がなかったら、 短時間でできても精々4人分くらいしかできないと思うんです。 その時は1時間で100食作る勢いでやってましたから。
田井
実際にカフェをはじめてどうでしたか?
聖書聖書は、火傷の痛みを取る
小野
1日100食でもいくらでもなんぼでも作るで~!!という勢いではじめたんですけどね、 そんなん、 もう(苦笑)。 『今日もフードのオーダーゼロやなあ』って、 そんなんばっかりでしたわ。
田井
ちなみに、 その頃の営業時間は何時から何時までだったんですか?
小野
オープンは11時半で、 クローズは22時やったかと思います。
田井
ランチがあって、 夜はお酒も飲めるって感じですか。
小野
はい、 夜はお酒も出してました。 結構なんでもありでした。 ライブもやってましたし。 やりたいことの形はできていたんですけど、 それになかなか反応が伴わない。 ライブの時には、 お客さんが入ってましたけどね。 ライブがない日は中々お客さんが入らなかったですね。
田井
今みたいに、 ソーシャルネットワークとかは無い時じゃないですか。 どうやって告知したり広めていったりしてたんですか。
小野
mixiはありましたから、 活用してました。 中には、 それを見てきてくれはった人もいましたよ。 僕の中では、 初めからインターネットありきでお店はスタートさせてました。 僕は、 1998年に自分のバンドのHPを作ってたんです。 インターネットの創世記の頃に。 なので、 自分でHPを作ってやるということを前提としていました。 自分はインターネットを使うことに長けていると思ってたんで、 それで集客できるだろうと考えていたんです。
田井
その頃って、 ブラウザは『Netscape Navigator』で、 もちろん、 ダイアルアップの時代ですよね。 その当時にもう、 HTMLのタグとかもわかってはったわけですか。
小野
逆に、 HTMLしかわからないですよ。 CGIとかのプログラムをダウンロードして組み替えて、 自分なりに作り替えたものを適当に自分のサイトに埋め込むってことはできましたけど。 ソフト屋さんでもなかったので、 全くのゼロから作るというのできなかったです。
田井
そういう知識もあったから、 岩倉のちょっとゆったりした辺りでも大丈夫かなと思った訳なんですね。
小野
そうですね、 カフェ+αが自分にはあると思っていたんで。
開業から2年後、
烏丸三条に移転することに。
田井
現在の烏丸三条のお店に移転されるまではどのくらいあったんですか。 よければ、 移転された理由を教えていただきたいのですが。
小野
岩倉では2年やりました。 郊外なんで、 車での来店が大前提だったんです。 開業した時はお店の真向かいの駐車場を借りてたんですが、 それが1年もせんうちに、 「マンション建てることにしたんです」って言われたんです。 それで、 50メートルくらい離れたところにまた駐車場を借りたんですが、 それから半年くらいでまたマンション建設地になり、 最終的には店から徒歩3分ほど先にある駐車場が一番近くなったんです。 そしたらね、 車で来店されるお客様が来なくってきて(苦笑)。 わざわざ駐車場から歩くくらいなら、 目の前に駐車できるほかの店に行こうってもんでしょうね。
そこで、 これは車に依存するこの場所で商売するのは無理やなと思ったんです。 その当時、 ガソリン代も高騰してたし、 若者の車離れも進んでいることやし。 それならもう真逆をとって、 街中、 駅近にいこうと思ったんです。 で、 ここになったわけです。 まあ、 ここまで便利な所でなくても良かったんですけど。 ご縁があって紹介してもらい来てみたら店の感じがすごく良くて、 音を出しても大丈夫そうだし、 夫婦ふたりでやるにもちょうどいい大きさだと思い決めました。
田井
岩倉のお店の時には結婚されてたんですか?
小野
結婚したのは、 岩倉からここに移転してくる時と同時です。 家内とは、 僕が開業する少し前にライブをしに行った場所で出会ったんです。 最初は店をひとりで始める予定だったのですが、 まあ不安じゃないですか。 そこで「ちょっと手伝いに来て」って頼んだら、 初日に本当に手伝いに来てくれたんですよ。 それが縁なんですけどね。
岩倉からここに移転するといには、 2人で決めました。 既に結婚も決めてたし、 ここでこのままでは家庭を築くには難しそうやなとも思っていたんで。
田井
それで烏丸三条に移転してみてどうでした?
小野
そりゃあ、 ものすごい期待してきましたわね。 店の前の人通りだけでも、 数でいうたら10倍はあると思うんですよ。 だいたい多い時やったら1万人くらいこの前を通るんです。 それで、 『売り上げも10倍になったらもうベンツやな!』なんて言ってたんですけど、 10倍どころか全然でしたね(苦笑)。
そこで思ったのが、 立地がいくらよくてもネットができてもカフェとしての中身がよくないと、 商売成り立つもんじゃないなと。 内容に力を入れて、 もっとメニューも充実させていかなあかんなと思ったのもこっちに来てからです。
田井
もともと岩倉にいた時のメニューっていうのはどんなんだったんですか。 カフェぽいメニューかなと思っていたんですが。
小野
もう今思ったら、 1990年代の古いメニューですね、 喫茶店的な。 カレーライスとかチャーハンとかサンドヴィッチとかパフェとか。
田井
カフェを始められる前に、 いろんなカフェを見に行ったりしましたか。
小野
カフェを始める時はあまり行かなかったですね。 なんせ、 自分に変な自信があったもんですから(苦笑)。
カフェは自分にとって音楽表現の場
田井
小野さんの中でカフェってどんな定義というか、 カフェって何なんでしょうか。
悲しみや痛みに聖書の研究
小野
行き着く所、 お店で音楽を表現したかったんですよね。 音楽に出会ってくれる人を相手にお店をしたいなと思ったんですよ。 すでに音楽を好きで、 好きなミュージシャンがいる人は、 ライブハウスに行かはりますやん。 音楽の楽しみ方も知っているから。 そうじゃなくて、 『音楽ってこんなにいいのに!』ってことを知らない人に、 ちょっとでも僕の思うところの音楽の良さが届けばいいなと思っているんです。 だからカフェにしたんです。 カフェという業態に、 自分のやりたいことがすぽっと埋め込めるなと感じていたんで。
カフェっていうのは、 よりパブリックで多目的に人が集まる場所だと思っていましたから。 まあ、 カフェと名がつけば流行るかな…なんて安易な考えも無きにしもあらずだったのですが(笑)。
田井
では、 どちらかというと「飲食」よりというよりは「音楽」よりなんですかね。 音楽を広めるというか、 自分の好きな音楽を人に聞いてもらって、 何か刺激を与えられたらいいなあということがメインになりますか。
小野
最近、 ちょうどそのことを考えていたのですが、 結局このカフェは、 僕にとっての音楽表現なんやなあって思うようになりました。
田井
カフェをやっていることがライブってことですね。
小野
そんな感じです。 このカフェを通じて、 自分が思っている音楽を表現する。 このカフェが音楽を表現できる媒体というか、 ひとつの楽器というか。
ある雑誌の取材を受けた時、 「この店を楽器に例えたら何ですか?」と聞かれたんです。 その時にスッと「ウッドベースです」って答えたんです。 ウッドベースは、 音楽の根幹だと思うんです。 リズムを奏でる要でもあるし、 コードを支える音調の土台でもあるし。 非常にバランスのとれた楽器だと思います。 一番下の部分を支えていて、 フロントマンは別にいるという部分でも、 この店にぴったり当てはまると思いました。 ライブをしているときはミュージシャンが主役だし、 カフェ営業の時はお客さんが主役だし。
だから、 店には主張しすぎるものとかあんまり派手なものも置けないですよね。 ベースが一番前に出ている音楽もないですからね。 店自体は地味ですよ。 ネット上では派手にやってますが(笑)
田井
要するに、 そこにお客さんが色を付けたりするわけですよね。
小野
そうです、 まさにそういうことです。
田井
僕も、 一番始めにカフェを作った時の店内は真っ白だったんです。 それは小野さんのとは意味が違うかもしれないですが、 デザインの仕事をやっていたので、 店内を白い紙に見立ててそこに料理やお客さんが色付けしていく……そんなコンセプトでした。 店自体に主張はなくて、 メニューなどもモノトーンで統一していていましたね。 まあ、 僕らはビジュアル的にそう考えたんですけど。
小野
なるほどね。 そういう観点でみたら、 以前からサロンさんとうちとでは、 メニューなど共通する部分があるなあと思っていたんです。 特定の人しか楽しめないというお店ではなくて、 誰もが集う場所的な店づくりというか。
田井
ウッドベースだけでは演奏は成り立たないし、 紙も何も描いてなければただの白い紙切れだし。 なんて言うのかな、 お互い、 お店としてのスタンスが似てるんですよね。 もちろん、 お店自体が主張するサックスやエレキギターのようなお店もあって、 それはそれでアリなんですよね。
キーワードは「表現する」「発信する」
小野
僕らの店に集まる人は、 そういう場所が大好きな人たちで、 それを楽しいと感じる人たち。 うちのお客さんは、 国籍も年齢もバラバラなんですよ。 それも僕には嬉しいんです。 でも、 「ゆったりとカフェで過ごしたい」という方がこられた時に、 ご迷惑をおかけしちゃうことがあるんですよね。
「夜カフェに来て静かに本を読みたい」そんな雰囲気もうちの店にはあるんです。 ところが、 お酒を飲んだ人が5人くらい来ていきなりここで二次会が始まる。 僕にとったらそれはアリなんですけど、 そのお客さんにとったら居心地が悪い状態になる訳なんです。 で、 ある時お客さんに「あそこのうるさいお客さんに注意してください」と言われたことがあったんです。 その時はそのお客さんに心が負けて「すいませんがもう少し静かに・・・」って言ってしまったんですが、 後々考えたら「そんなん違うなあ」と思ったんですよ。 「うちはこういう店やし、 それをわかってもらうべきやな」って。 その時のことがきっかけで、 店のあり方を考えるようになったんですけどね。
田井
カフェと一言で言っても数はたくさんあるし、 お店のタイプも色々ですよね。 大型チェーン店とかファミレスみたいなところだったら、 そういう話もあるのかなと思いますが。 僕らのように自分らの考えるスタイルとかスタンスでやっている店に、 居心地の良さを感じて人が来てくれる、 それでいいのかなって僕は思います。
話は変わりますが、 最近ユースト(USTREAM)で番組をやられたりしてるんですよね。 それを始められたきっかけは何ですか。
小野
自分なりの音楽表現をしたいというのがあるのですが、 それだけではなくて、 ビジネスとしてもカフェという業態だけではこの先アカンのやろなって危機感があるんです。
飲食店というのは、 お客さんの立場にしたら娯楽の一つなんですよね。 娯楽というのは色々あって、 家でテレビを見ていたり、 映画を見たり、 それこそカフェでお茶を飲んだりといろんな娯楽が競合しています。 自分のビジネスとして、 ほかの娯楽と勝負できる事業をやっていかなアカンと思っていて、 取りあえずユーストにチャレンジしてみようと思いました。 それが成功するかどうかわかんないですけど。
田井
いろいろお話を伺っていて、 小野さんの根底にはあるのは音楽。 そして、 小野さん自身のキーワードとしては「表現する」「発信する」なんだと思ったんですが。
小野
表現したいものをまとめ上げるところまではまだまだできていないんですが、 まあ、 ヨボヨボになるまでにはそういうことができるようになっていたいですね。
そういう点で、 手塚治虫をすごく尊敬しているんです。 漫画を通じてものすごい世界を描いているでしょう。 僕は、 手塚治虫のようなことはもちろんできないですが、 感じていることをユーストやブログ、 またはお店の中で表現して、 理解してもらえるような形に最終的にはしていきたいなと思ってはいます。 まだ全然そこまで行ってないですけどね。 今はとりあえず商売を成り立たすのに、 ヒイヒイ言っているので(笑)。 商売が安定してきたら、 そういうステップにいけたらかっこいいなと思っています。
田井
思うのですが、 うつの時期があって引きこもっていた時期があったから、 その反動で「表現」「発信」というのがあるんですかね。
小野
それはあると思いますよ。 「なんかおかしいんちゃう?」って、 人間の生き方で思う部分がいろいろあるんですよ。 今で言うたら原発の問題とかね。 僕はその「おかしいんちゃう」の根底は「日本人として不自然な社会になっているから」と思っているんです。 そういうことを表現できたらいいなと思っているんです。
人を雇い育てる…
「チームジンタ」を作りたい。
田井
では、 これからこのお店自体をどうしていきたいとかありますか?
小野
そうですね、 お店として今一番の課題が「スタッフの増員・育成」ですね。 今は基本的には僕たち夫婦が中心になってやっているのですが、 もっといろんな人がここで働いて、 人生のある期間を過ごせる場所にしていきたいなと思っているんです。 具体的には、 人を雇って「チーム」を作って、 その「チーム」がお店をさらに豊かにして、 お店が「チーム」のスタッフを豊かにしていきたいと思っているんです。 そういう意味で、 『カフェノイナー』さんとか『Cafe Salon』さんへの憧れってすごいあるんですよね。
田井
それはありがとうございます。
小野
それが、 自分らを磨くことにもなると思っています。 うちの息子も2歳でこれからの子育てもありますし、 そういったプライベートな面にもリンクしますしね。
人を育てるというか、 自分も何らかの組織に属したり人との関わりのなかで育ってきたので、 なんというか恩返しというかそれを若い世代に繋げていかないとあかんと思うんですよね。 それが社会だと思いますし。 自分らだけ食っていけたらいいわ、 というのは違うかなと思っています。 それは、 一会社員として思ったり感じたり悩んだりしたことが大きく影響しているかもしれません。 この店を通じて音楽を表現するという方向性は定まっているので、 それができる土台とか骨組みをより強くしていきたいと思っています。
田井
サラリーマン時代に思い悩んだりされたことが、 お店のオーナーとなった今、 人を雇う立場になった今、 役に立ったとうことはありますか。 または、 逆に反面教師になったりしたことはありますか。
小野
そうですね、 実を言うとまだ成果がでるというところまではいってないです。 失敗の連続なんです。 「雇っては辞める」の繰り返しで、 うまいこといったためしがないというか……。
会社にはきっちりした組織があり、 そこにはみんなが守る規律があるわけですが、 それが誰にも指示もされることもない分、 自分中心でルールを作って規律を守る組織を作らなければならない、 それがうまいこといってないんです。 自分という人間の弱さとか、 組織に対してガンとしたルールとか秩序とかを持たらしめるまで自分が強くなれてないなと思います。
田井
むしろ、 そういう大きな組織とかの中で仕事をするのが向いてない人が、 カフェを始めるのかなあと僕は思ったりして(笑)。
小野
そうなんですよね(大笑)。
田井
僕は学生の時に「将来、 スーツを着て満員電車に乗って仕事をするのは嫌だな」と思っていたのですが、 ある時、 「嫌やなという以前に無理やな」と思ったんです。
僕らは場所を持っているんですよね。 人が集まってくる場所を持っていて、 そこに小野さんの場合は音楽があって、 僕らはそこにデザインがあって、 組織に属して、 命令されたり人の指示で動くのが苦手やったりするけど、 人が集まってきたり、 チームで何かするのは好きなんですよね。
決して人間嫌いとかではなくてね。 決して、 仕事が嫌だから、 という理由でカフェをやっているわけではないんですよね。
小野
そうですね。 僕自身、 仕事が嫌だったわけではないので。 ただ自分が100しかないコップに300とか500とかの水が入ってきて溢れ返ってしまったから、 できなくなってしまっただけなんでね。
田井
その経験は、 今に生きてますよね。
小野
僕はブログにうつ病を克服したことを書いているので、 時々「僕もうつ病です。 でも何とか抜け出して自分の人生を歩いていきたい」というメッセージや「どうしたらよいか」という相談をされることがあります。 克服するという根底の部分に「何がしたいか」があると思うんです。 形だけ作ってもなりたたないじゃないですか。 僕には幸いなことに音楽がありました。 それがなかったら、 うつを抜けだして独立することはできなかったと思うんです。 「やりたいこと」っていう燃料がきれたからうつになったし、 逆に燃料を満たせたからうつも克服できたのかもしれません。
田井
今は楽しいですか?
小野
楽しいですね。 苦しいけど楽しいですね。
田井
それが最高ですよね。
小野
人間、 飽和したらあかんなって思うんですよ、 日常生活でも食べものでも。 サラリーマン時代と比べたら収入なんかも全然違うんですけど、 今の方が満たされてないのに、 はるかに楽しい!! それがおもしろいですよね。
田井
価値観をどこに置くかですね。 僕は、 大人が「仕事が楽しい」って言ってる世の中がいいんだと思うんですよ。 なんか不機嫌な大人が多いじゃないですか。 それにはもちろん、 色々な理由があるんですけどね。 少なくとも大人が自分の仕事は楽しいなと思っていられたら、 子どもたちはそれを見て、 「早く大人になって仕事がしたいなあ」と思う。 カフェでもサラリーマンでも何でもいいんですけど。 そういうのっていいなと思ってるんですよ。 そのためにもがんばらないと! と思っています。
小野
そうですね。 「これって、 本当にせなあかんのかな?」と疑問に思うことをしてお金を得るのを辛いですよね。 それがお金にならなかったらもっと辛いですが。(笑) やっぱり自分のやりたいことを見つけて、 それに一生懸命取り組む、 それが何より幸せなことやと思います。
田井
今日は、 とってもおもしろかったです。 ありがとうございました。
インタビュー 田井祥文/文 小笠原景子/写真 市川裕康
小野仁士さん
1971年生まれ。 立命館大学卒業。
家族は、 理解のある妻と2歳の息子。
好きな言葉は「毎日が正月気分」(ジョージ秋山作『はぐれ雲』より)。
京都市在住。Cafe Jinta
京都府京都市中京区烏丸三条東入梅忠町20-1 烏丸アネックス 2F
TEL 075-950-2534
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